自分の大学時代のこと (君塚直子)

こんにちは。昨日、OBが相談に来ていたのをきっかけに、自分の大学時代を思い出しました。(君塚直子)

大学に2浪して入り、3年次から4年に上がれず1留して、合計『女子が』3年もダブった。
(1985年の男女均等雇用法以前のことで、女の価値は若くてなんぼが今より強かった)
親に出費・心配増やしたし、いろいろ当時はイヤだったが
今となっては、

①3年ダブったお陰で専門化学研究職は就けず、プログラマに進んだお陰で広さんと出会い、3人の我が子にも出会えた!!
②留年して4年次に研究室に入った時、周囲はそれまで一緒に学んできた同期より1年若い。なじみのないおばさんが上から降りて来て交ざったという状態で、ものすごく肩身が狭かった。それが、1年一緒に頑張った最後には、本当に仲間になれていて『あ、自分はこのままで充分いいんだ!』と感じた。それまで、中学から二十歳超えるその時まで、常に、自分でない他の誰かになりたい!と思い続けていたのに。

③入学した日『現役?浪人?』と聞かれて『浪人』と答え、内緒にするつもりは無かったが
1浪だと思われたのをついにずっと隠し通すことになった。それが結構大変で、生年月日のある学生証も見せられなかったから、友達とボウリングに行って学割にカウンタで出す時も忘れたとか、常にややこしかった。ウソをつき続けること自体が苦しかった。ちょうど1981年ピューリッツァー賞受賞者が、学歴詐称が発覚した後、調べられたら受賞記事にも捏造がバレて大きく報道された。私はニュースを読んでものすごく辛かった。ウソはその人の体の一部分であるだけなら、そこを切り取ってしまえば良い筈だが、そうではない。ウソはその人の体全体に、薄く満遍なく行き渡ってしまっている。そう言われている気がしたからだ。(今、43年ぶりにWikipediaで詳細を読むと、当時の心痛を割とハッキリ思い出すことになった)

結局、3年次終わりにレポート提出不足で留年した後、教授が母に
レポートが出せないのは、一度精神科を受診したらどうかと電話をしてきた。
大学に国分康孝教授がいたので、自分で相談に行ったところ、
都立松沢病院に紹介状を書いてくれた。紹介状のせいか、松沢病院では、丁寧に1時間半以上、じっくり話を聞いてくれた。私はそこで、初めて年齢隠しのことを話して、大泣きした。